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回想録3 ラジオ記者クラブ 平成17年6月

昭和24年から34年頃にかけて、日本のエレクトニックス業界は 未曾有の発展と、変化を遂げました。この時期にラジオ技術雑誌の 編集記者を経験した「つー爺」は誠に幸せ者でした。

電波新聞を始め、この間に刊行された雑誌類は10誌を超え、 業界のリーダーの呼びかけで「ラジオ記者クラブ」が作られました。

左の写真は昭和27年の夏に第1回目の集まりがあったときの写真です。 前列左側から2人目が若き日の「つー爺」です。記事のネタに困ることは 有りませんでした。何しろ業界が活気に満ちあふれていましたから。




沢山の人に会いました。特に[ラジオと音響」の当初の編集委員は当時の オーディオ界のリーダーでした。

委員長は東工大の栗原 潔さん、委員にはNHK技研の冨田 義男さん、法政の千葉 茂太郎さん、ナナオラの萩原 進さん、早稲田の伊藤 毅先生、東芝の牧野さん、NECの吉村 禎夫さん、

執筆者には浅野 勇さん、松尾 静弥さん、中島 健蔵さん、私が最も個人的に薫陶をうけた赤井電機の大津 光一さん、ホーンスピーカーの伊藤 喜多男さん、池田 圭さん、青木 周三さん等、枚挙に暇がありません。

残念ながら赤井電機は今は姿を消しましたが、当時は旭日昇天の勢い でした。熱血漢であった社長の赤井 三郎さんは、日本スキー連盟の会長 まで勤めた行動的な経営者でしたが早世されました。

大津 光一さんは 浜松高専(現静岡大学)出身の若きエンジニヤで当時35歳ぐらいの素晴らしい 個性をもった技術者でした。一世を風靡したアカイモーターの設計、オープンリール 型の縦型高性能テープレコダーの開発設計等、天才的な技術屋でした。 後輩の私を何度も、飲みに誘ってくれました。鎌田付近の赤提灯で鱶鰭酒 の飲み方を教わったり、大森海岸の料亭に招待していただいたこともありました。 誠に残念な事に昭和30年ごろに癌で亡くなられました。もしも大津さんが、 あるいは赤井さんが、後10年ご存命であったら、赤井電機は大発展したと信じます。

マリックという出力トランスを作っていた松尾さんは九大出身で実に豪快な方で 後輩の薫陶のためには金を欲しまない人でした。若い時には、股火鉢で 爛漫のコップ酒の味も知れと教わり、向島の料亭で芸者遊びも経験しろといわれ、 上野の神田川の鰻をご馳走になったこともありました。全部身銭を切っての 実地教育でした。良き時代に良き先輩に会えた事を感謝しております。



左の写真は26年頃の私の実験室の棚に並んだオーディオ機器で製作途中の ものもあります。当時三菱のダイヤトーン P−610というスピーカーが有名でし た。


文中に出てきた先輩の方々は、残念ながら殆ど故人になっております。