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ビンテージ編7 Leitz社 Leica M2 平成17年6月

今回は愈々、ライカの登場です。1960年の9月、30歳の「つー爺」は社用でドイツ のデュセルドルフへいきました。その地のカメラ店で 夢に見たライカの新品を買ったのです。

当時発売間もないM2型でレンズは余りにも有名な ELMAR 1:2.8/50DでTessarと同格の3群4枚構成です。 Leica METER も購入しました。このエルマーというレンズは沈胴式で、撮影時には引き出して使います(写真は引き出した状態)。

購入してから 45年経ちましたが、全く異常はなく、極寒のシカゴや極暑のマイアミでも安心して使 いました。今、「つー爺」が持っているカメラの中で 一番のお宝がこのライカのM2です。45年間の思い出が凝縮されております。


このM2の 具体的な話に入る前にLeicaの場合はどうしてもお話して 置きたい事があります。それはLeicaの生い立ちと進歩の歴史です。それを理解 する事によって、LEITZ社のポリシーが解り、 なぜ世界中にLeicaの愛好者が多いかが解ると思います。

今日、高性能1眼レフデジカメの出現により、カメラとしての機能はデジカメに王者の 席を譲ってしまいましたが、名機としてのLeica名前は永久に不滅だと思います。

一口にライカと言っても、その機種は30種類以上もあります。まずバルナック型と M型に分かれます。なお、今回は解説を割愛しますが、この他に1眼レフのR型というのも存在します。

1914年ドイツのオスカーバルナック博士がプロトタイプのライカを制作しまし た。 それが1965年にライカVgに進歩しました(バルナック型)。添付した資料を 参考にしてください。バルナック型だけでも40年以上のロングランを記録したので す。 35mmの映画用フィルムをスチールカメラに使うという発想が当時としては大変なこ とでした。戦前の35mmの映画用フィルムは粒子が粗く、ラチチュードが狭く 引き伸ばしを前提としたライカには難問でした。バルナック博士が今日のフィルムの 驚異的な品質の向上を予知していたとしたら大天才です。

ライカはM6まで進歩しますが、全機種マニュアル操作です。シャッタースピード、絞 り,フィルム感度、フィルム巻取り、巻き戻し等、全てが手動です 露出計を別に買って利用している人もいましたが、殆どは「勘と経験」で 勝負をしました。速写性が重視されていたのです。

更なる特徴はレンズの交換が可能になった事です。従来の殆どのカメラはシャッター式 レンズを使用していた為、レンズの交換が不可能でした。 ライカはフォーカルプレーインシャターを採用しました。今では常識になっている機 構ですが当時としては画期的な発明でした。レンズはスクリューマウント式で、やや 不便さがありましたが、M型が出るまでは、これが世界基準になりました。


ともかく、A型ライカはその速写性と利便性で報道関係、プロのカメラマンがどんどん採用しました。当初は1台、1000円以上 したそうで、普通の家が1軒建てられる程高価だったそうです。

日本では木村 伊兵 衛さんが、心温まる写真を次々に発表されました。下町の風景や ポートレートに傑作が沢山あります。(管理人注:すいません、先生の作品を一枚だけ小さくして拝借しました。詳しくはサイトなどでご覧下さい)

優れた機動性は戦争報道カメラマンに歓迎されました.第2次大戦のあのノルマン ディー上陸作戦の迫力満点の写真は、ロバートギャバとライカによってのみ撮影でき た歴史残る傑作でした。ピントが合わずとも、粒子が荒くとも、報道写真のお手本で した。弾丸が雨霰と飛び来る浜辺でピントなぞ合わせることは無理なことで シャターチャンスは逃げてしまいます。


ロバートギャバは 「最高の写真は出来るだけ被写体に近ずくことだ」を信条にしておりました。 望遠やズームなどが使える状況ではありません。ライカの機能が最高に発揮でき た瞬間でした。1932年、ライカのU型が発表されました。このモデルから初めて連動距離計が搭 搭載され、更に利便性が向上しました。

余分な事ですがカメラ業界の「大ヒットモデル」のメーカー名や、個々のカメラの 名称を見ると、日本語で3乃至4文字、英語で5文字位のも物がヒットしているのに 気付きます。「ライカ」、「ニコン」、「キャノン」、「コニカ」、「マミヤ」、「ツアイス」、 「スピグラ」 「レチナ」、「ローライ」、「コダック」 等々、いかにネーミングが大事か、思い知らされました。

次回はM型Leicaです。