日本人の得意とするところは武術で、男子12歳で初めて刀剣を帯び、以来夜間のほか腰間を脱せず。武器は剣、短剣、小銃、弓矢である。剣は精錬を極め、その鋭利なことはヨーロッパの剣を真二つにしても刃に傷も残さない。気質として、名誉を重んじ、他に賤しめられることを最も嫌う。日本人の多くは壮壮大不羈で戦闘に堪えうる。その容貌はオリーブ色だが、シナ人は日本人を白人といっている。精神活発で、敏捷であり、勤勉で全ての困苦に耐える美質がある。さらに、知識欲がさかんで理解力に富み、地上におけるもっともすぐれた民族の一つである。

1715年に、戦国時代にパリで刊行された「日本西教史」による日本人観。300年前は日本はこのようにヨーロッパに伝わっていました。
特定の外国と特定の関係を結ぶな。はじめは口あたりの良い条件を持ってくるが、やがては骨の髄までしゃぶられて、インド人同様にされてしまう。

弱体化する幕府に近寄っている外国に関して、勝海舟が幕府に警告した言葉。でも勝は失脚してしまう
この若者は物おじせずひとの家の客間に入り込む名人といってよかった。相手もまた、この若者に魅かれた。ひかれて、なんとかこの若者を育てたいと思い、知っている限りのことを話そうという衝動にかられた。幕臣の勝海舟もそうだし、大久保一翁もそうだった。熊本にすむ桁外れに合理主義的な政治思想家の横井小楠もそうだったし、越前福井藩の大殿様の松平春嶽もそうだった。かれらは「竜馬愛すべし」といって、様々なことを教えた。竜馬にはそれをさせる独特の愛嬌があった。

西郷が竜馬が意外な情報通であることに驚いたときの作者の解説
「世でおいをユッサ(戦さ)好きじゃというちょるが、誰がユッサを好くものか。ユッサは人を殺し、金を使うもので、ユッサばしてはしてはらなんもんでごあす。しかし機会が来ればユッサもせねばなりもはンど。欧米の文明も、ユッサをしてできたもんでごあす」

晩年の西郷の言葉。ちなみに作者は、「西郷という人は、武力こそが外交を好転させる無力の力だという思想の信奉者で、これは終生かわらなかった」と書いている。
「お前さんを、一人前の艦長に仕立て上げたのはおれだがしかし恩に着なくてもいいぜ。他日、海上でわしは幕府艦隊をひきいてお前さんを討つかも知れねえ。そのときは、そっちも艦隊を自由自在にきりまわして存分にやりな」

神戸海軍塾解散の時に勝海舟が竜馬に言った言葉。これを聞いた竜馬は、涙が噴くようにあふれ出て、始末におえなくなった。有史以来、これほどの師匠をもった者があるか、と思った。
人間、不人気ではなにも出来ませんな。いかに正義を行おうと、ことごとく悪意にとられ、ついにはみずから事を捨てざるをえなくなります

京都で宿敵長州を討った薩摩の人気がなく、西郷が困っていた時の竜馬のコメント
幕府なんざ、一時の借り着さ。借り着を脱いだところで日本は残る。日本の生存、興亡のことを考えるのが当然ではないか

勝海舟とのこのときの対面で、西郷隆盛ははじめて自分の世界観、新国家論を確立させた
幕閣々々とたいそうに申されるが、ろくな人間はいませんよ。老中、若年寄、といっても、みな時勢にくらい。たとえば、今回の禁門ノ変で激派の浪士が長州軍に従軍して戦死し、残ったものも萎縮して再起不能になっているのを幕閣ではよろこび、もうこれで天下太平だと思っている。その日ぐらしのおどろくべき無能の徒ぞろいですよ

勝海舟が西郷にした幕府批判。聞いた西郷はびっくり。
外交能力のなさは、日本人の欠点であるとされている。が、古来、薩摩人にかぎってはまるで異人種ではないかとおもわれるほどにその能力に満ちていた。その外交能力の点では薩摩人のなかでも西郷が群をぬいて卓抜していた。おそらくこの時期の西郷は、日本史上最大の外交感覚のもちぬしといっていいであろう。

西郷が(幕府が長州を討つ)→(そこで長州に親切にする)→(長州と組んで倒幕する)というシナリオを考えていたとき
「竜馬、これだ。これで日本は亡びるさ。墨国(アメリカ)の高官は、用があればさっさと一人で見に行く。幕府というのは諸事、この調子で事を運んでいるからさっぱり効率があがらない。」

勝が外国軍艦が集まっているかどうか見に行こうとしたら、駕籠が三挺仕立てられ、勝と奉行と幕府の目付が乗り、それ以外に奉行の下の代官、支配組頭、調役、与力、同心といった連中が奉行や勝の威儀をつけるためにぞろぞろついてきた時。
物ごとの対立がするどくなると双方理性をうしない、憎悪でものを考えるようになる。

幕府人の長州憎しの感情が病的になっている様の描写。
このころの航海用語での風は0番から12番まで区別されており、0番は無風、一番は至軽風、風速3.18メートルである。以下、軽風、軟風、和風、疾風、雄風、強風、疾強風、大強風、全強風、暴風、颶風の順。

すいません。ただ面白かったので・・
北添、人が事を成すには天の力を借りねばならぬ。天とは時勢じゃ。時運ともいうべきか。時勢、時運という馬に乗って事を進めるときは、大事は一気呵成になる。その天を洞察するのが、大事をなさんとする者の第一の心掛けじゃ。明智光秀は天を察せずに事を急いだがために本能寺で信長を殺しただけにとどまった。秀吉は時運に乗ってきたがために天下をとった。北添、時運はまだ来ちょらんぞ。

北添きつまの企てているクーデターを、タイミングが悪いといって思いとどまらせようとしたとき
俸禄などというものは鳥に与える餌のようなものだ。天道(自然)は人を作った。しかも食いものを作ってくれた。鳥のように鳥籠にかわれて俸禄という名の餌をあたえられるだけが人間ではない。米のめしなどは、どこへ行ってもついてまわる。されば俸禄などがわが心に叶わねば破れたる草鞋を捨つるがごとくせよ。

竜馬が二度目の脱藩をした時。賢君を偽装した希代の暗君容堂への激しい反感のなかで書いたもの
明治維新は、フランス革命にもイタリア革命にもロシア革命にも類似していない。きわだってちがうところは、徳川三百年の最大の文化財ともいうべき「武士」というものが、担当した革命ということである。

明治維新に関する司馬遼太郎のコメント。土佐勤王党の武市半平太が逮捕されることになり、死を覚悟した武士の美意識に接して
勝は痛烈な批評家だから閣老の受けも良くないし、海軍の後輩である現場の連中にも評判が悪い。勝の日常はのべったら皮肉はいうし、聞こえよがしの悪口はたたく、やられた連中はみな根にもってしまう。勝ほどの万能選手が、たったひとつ他人の感情に鈍感だという欠点があった。

軍艦奉行並という絶大な権限を持つ勝海舟をもってしてもどうして船一隻調達できないのかと竜馬に尋ねられた時に、海軍頭の連中がなかなか船を渡そうとしない理由を大久保一翁が説明したもの。
維新史は、竜馬、西郷隆盛、桂小五郎などの行動家の「行動」だけをおうことで理解しようというのは誤っている。そこにつねに、勝の頭脳が存在していた。この頭脳は奇妙な座布団に座っている点で、輝かしい働きを示した。奇妙な座布団というのは勝自身、幕臣でありながら、幕府の利害で時勢をとらえず、一段うえの日本的な立場で時勢をとらえ、そこからものを考えた。こういう立場を持つ頭脳は、幕府はおろか、京都の公卿、薩長の志士にも当時はいない。この頭脳は偏見的な立場をもたない、というので、竜馬だけでなく、薩摩の西郷などもずいぶん勝の意見を聞き、西郷の日本をめぐる国際環境の理解は、多くを勝から受けているといっていい。

司馬遼太郎の勝海舟に関する記述。あれだけ価値観や情報が偏っていた時代に凄いとしかいいようがありません。
清河は、卓抜すぎるほどの批評家で、同士の無能を憎み、相手の慎重を怯懦(きょうだ)とし、しかもそれを攻撃する論理、表現はアイクチのようにするどく、相手が参ったといってもやめず、つねにとどめを刺すところまで言及した。のこるのは恨みだけである。よほど大事の瀬戸際でない限り、座興の議論などに勝っても仕様がないものだと竜馬は思っている。相手は決して負けたとは思わず、名誉を奪われたと思う。いつか別の形で復讐するだろう。清河は酒間の議論でも不適に冷笑しつつ、相手がくたばって死骸同然になるまで舌鋒をとどめなかった

清河八郎が殺されたと聞いて、その人生に竜馬が想いをひそめて。
「お田鶴さま、あなたはむかし、こんな男が好きだとおっしゃったことがあるでしょう。天下がこれを非とするも自分が正しいと思えば断乎として往くのが男である。そういう男になってもらいたい、ということ。わしゃ、それじゃ」

攘夷急先鋒の長州藩が外国の戦艦相手に実力行使に移っているのに、竜馬が動かないため、お田鶴さまが腑斐無いなく思って叱声をこめた発言をしたとき。確かに動くには時というものがありますよね。
激動期には、時代がどう動くか、一寸先もわからない。そいうときの藩の指導者は、満身創痍になるのもいとわず、刃をふりかざし、面もふらずに先頭にたって時勢を切り開いていく織田信長型か、それともいっそのこと流されっぱなしになってゆくか、どちらかしか道のないものだ。− 中略 −「あの方の厄介なことは、自分の才能、度胸にうぬぼれきっているところだ。− 中略 −わずかに他人よりすぐれているというだけの知恵や知識がこの時勢になにになるか。そういう頼りにならないものにうぬぼれるだけで、それだけで歴然たる敗北者だ。」

竜馬が、土佐藩老公の山内容堂が勤王党を弾圧していることを評して。
「藤兵衛、人間は何のために行きちょるか知っとるか。事をなすためじゃ。ただし、事を成すためには人の真似をしちゃいかん」世の既成概念を破る、というのが真の仕事というものである、と竜馬はいう。だから必要とあれば大名に無心をしてもよい。

軍艦の塾を開く費用を作るために、拝謁権もない殿様に五千両のお金を借りに行くと聞いて、藤兵衛がびっくりしていたところに竜馬が答えて
「大鵬丸のマストには、山内家の船旗『三つ葉柏』がたかだかとひるがえっている。この三つ葉柏紋は別称土佐柏と呼ばれ、山内家の定紋で、のち、旧制高知高校(今の高知大学)の紋章になった。いや三菱会社を興した岩崎弥太郎は、土佐藩の財産を初期の会社財産にしたため、この三つ葉柏をよりいっそう図案化して、三菱の社章にした。読者の家庭にある電気製品などにその紋がついておれば、かつて土佐藩士が、『柏章旗のもとに死なん』としたその山内家の定紋がもとである。」

勝海舟が、伊豆の下田港で土佐藩が筑前黒田藩から借りていた大鵬丸をみた時に見た旗の話。スリーダイヤモンドの起源はこれでした。あの頃は、そのずっとあとに同じ系列のマークをつけた某自動車メーカーが5000億円近い赤字を出すとは想像もしていなかったことでしょう
「豊臣秀吉も徳川家康も、だまっていてもどこか愛嬌のある男だった。明智光秀は智謀こそそのそのふたりよりすぐれていたかも知れないが、人に慕い寄られる愛嬌がなかったために天下を取れなかった。英雄というはそうしたものだ。たとえ悪事を働いても、それがかえって愛嬌に受け取られ、ますます人気の立つ男が英雄というものだ。竜馬にはそういうところがある。ああいう男と喧嘩するのはするほうが馬鹿だし、仕損さ。」

武市半平太が竜馬の代わりに布団蒸しにされたことを怒らなかった理由を聞かれたときの半平太の言葉
「竜馬がゆく」を読んでいたら、尊皇攘夷思想の遊説で土佐までやってきた水戸藩士の住谷寅之介と飲むくだりが出てきて、そこで司牡丹が登場しました。僕は司牡丹の雫酒が大好きなのですが、なんだか急に龍馬が飲み友達になったような気がしました。単純であります。